「作風がガラリ!」明治時代の日本人画家(洋画家)の描く世界
芸術の秋も残りわずか…洋画家たちの描くこんな楽しみ方はいかがでしょうか?
■明治時代に注目する理由
洋画家(ようがか)とは、明治維新以降の日本人の画家のうち、「洋画」(西洋から伝わった油彩画・水彩画)を制作する画家を指す。
出典 洋画家 – Wikipedia
明治日本は、文明開化・欧化主義のもとに、政治、経済、建築、医学などの諸制度や諸技術を西洋化していきました。
出典 アート/ART 日本近代美術 洋画Ⅰ「明治時代の洋画家達」
美術においても、西洋文明を取り入れて西洋諸国に追いつくために1876年(明治9年)工部美術学校を設立し、外国から美術家を雇い入れて西洋美術の教育を始めました。
出典 アート/ART 日本近代美術 洋画Ⅰ「明治時代の洋画家達」
入りたての西洋美術が実に興味深い
■例えば江戸時代生まれの洋画家「浅井忠」の場合
江戸時代バリバリの作品もあれば
作風がガラリと変わる
日本の風景なのにどこか西洋風の作品に。
ミレーの落穂ひろいを連想すらしてしまう。
ミレーの落穂ひろい
日本近代洋画の先駆者として極めて大きな功績を残した浅井忠(1856~1907)は、千葉県ゆかりの画家
出典 千葉の県立博物館 | デジタルミュージアム | 美術館 | 浅井忠の軌跡
浅井は、幼い頃から絵に興味を持ち、「九歳の頃より藩の画家黒沼槐山と云へる人に就き、花鳥等を描くことを学べり」(『木魚遺響』)と言われています。
出典 asai02
後に上京して、明治9年(1876)に洋画家・国沢新九郎の画塾・彰義堂に入門
出典 asai02
西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。
出典 浅井忠 – Wikipedia
イタリア人画家フォンタネージが指導したのはバルビゾン派風の作品のため、浅井忠の作品にミレー(バルビゾン派の一人)を感じさせる作品があっても不思議ではない。
■そういう見方をすると明治時代の「洋画家」たちが実に面白い
黒田清輝「湖畔」
まさに和洋折衷
明治26(1893)年7月、27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。
出典 KURODA MEMORIAL HALL/黒田清輝の生涯と芸術/黒田清輝について
川村清雄の場合
初期の作品
勝海舟の力添えなどもあって徳川留学生として渡米。画業に専念するべく渡仏し西洋画の技術を学んだ。30歳で帰国すると西洋と日本の技術を融合した作品を発表した。
出典 川村清雄の油絵 : なんでも鑑定団お宝情報局2
渡米し、渡仏すると?
川村清雄「蛟龍(こうりゅう)天に昇る」
こうなる。
川村はそれらを「和洋画」あるいは「洋和画」と称した。
出典 川村清雄の油絵 : なんでも鑑定団お宝情報局2
彼らは西洋の真新しい技法、作風に影響を受けているため、そのパッションが絵にも現れていて実に面白い。
維新の洋画家「川村清雄」
■芸術の秋も残りわずか…まだ間に合います
浅井忠 | コレクション | ブリヂストン美術館
12月29日までの特別展です。
朝日新聞デジタル−「明治のこころ−モースが見た庶民のくらし−」
逆に明治時代の日本の影響を受けたアメリカ人の作品を観るのも面白い。江戸東京博物館、12月8日までの特別展
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